やっと開放され
2015-05-24


禺画像]
(写真は、寂光院に至る道です。)

昨日、マンションの総会が終わり、やっと、2年間務めた、理事の任期が切れ、その重責から開放されました。

今年度から行う、マンションの大規模改修も、今年度の活動報告、来期の予算も、反対表がほとんどなく、可決されました。

心配された、大規模改修への工事に対する、業者選定の経緯も、すんなり了解してくれることになり、この改修工事に対する、4年間の委員の方の苦労も実ることになりました。

大規模改修のような工事に際して、改修内容を話している過程で、常に専門家の中で、仕事をしてきていたので、自分の言葉が、人に通じないことを痛感いたしました。

人は、いつの間にか、自分たちを取り巻く環境の中で、言葉を選んで話をしている長い年月の間に、自分の取り巻く輪の外の人には、自分の使っている言葉が、全然通じていないことを、知らず知らずの間に忘れています。

弁護士出身の人は、弁護士の言葉で、銀行屋は銀行の言葉、作家は、作家の言葉、建築家は建築の言葉を使って話しますので、共通のベースが整わない間は、会話がちぐはぐでなかなか通じない、もどかしさを感じた2年間でした。

また、前民主党が政権をとった時に、ゼネコンは、悪の根源の様に、建設行為に対して、悪い印象を振りまいてしまいました。
このことが、建築に携わったことのない人たちには、ゼネコンは悪の根源の様な印象をもっていますし、談合や、手抜きは当たり前の様に感じておりました。

一生の間に、一度か二度しか遭遇しないような、建設行為に対して、その建設へのプロセスはわからないし、金額もいつも扱ったこともないような額に遭遇致しますと、ごまかされているだの、相当儲けさせているのではと、懐疑のかたまりになり、会議をまとめるのは難航いたしました。

ものの価値は、ネクタイなどは、材料費もそんなに掛かっていないのに、1万円でも2万円でも欲しい人は、お金を出して買いますし、車でも、自分の乗りたい性能やデザインの車に遭遇すれば、そのコストで車は買われます。

これが、建築になった途端、材料費が高いとか、人件費が高いとか、見積も細部の項目に入り込んで、本来要求している、デザインや性能についての価値の議論は、二の次、三の次になってしまいます。

車を購入するには見積がなく、見積書を見たことがありませんが、鉄板がいくら、ハンドルがいくらとか、塗装費はいくらとか、購入する前に見積書を検討することはありません。

建築のおける価値の誘導は、このような事象を一つ捉えても難しいです。
これが、デザインや設計料を払う段になると、さらに拍車がかかり、時給いくらだとか、図面を何枚書いたからいくらとか、価値に対する評価で設計フィーをもらうことがとてもむずかしいです。

マスプロダクトでない、一品生産の商品を売ったり、買ったりすることは、同じ建築をしてきたものに対しても、とてもむずかしいです。

今回、修繕の委員を努めて、改めて、建設の行為が、納得して了解を取り付ける事の難しいことを実感しました。
[おじさん雑感]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット